これまでの経緯ー黒島の両親から二歳のときに子供のいない久米島の雑貨商夫婦にさらわれ、その養父が亡くなり生活苦から、六歳のとき、養母に沖縄本島の辻に身売りされた。売られるといっても辻の場合は女社会であり、抱え親との関係を「アンマー(母親)クワ(子)」と呼び合い、その言葉通り主従関係は実の親子と同様であった。
辻でのフミの仕事は客の使い走りとアンマーの小間使いなど、さまざまな雑用であったので、早く寝ることはできなかった。
フミが八歳になったとき、アンマーは久米島の養母との約束を守って松山小学校に入学させてくれた。これを機会にフミは「比嘉文子」と抱え親の姓を名乗った。生来、明るい性格だったので友達がたくさんできた。
三年生の頃だった。ある日の朝、アンマーがフミに五十銭銀貨を与えて、「東町の市場へ行ってお茶を買ってきなさい」と言いつけた。フミは五十銭玉を持って、おいしいお茶を売っている東町の市場に向かった。
ところが途中で明視堂という店のショーウィンドーに、沖縄ではじめての水着が展示されていた。正札をみたらちょうど五十銭だった。
フミは欲しくてたまらず、子供心についフラフラとその黒い水着を買ってしまった。
その足でナンミン(波の上)の海岸に行って夕方まで泳いだ。
ようやく水平線に陽が沈むころ岸に上がって髪を乾かし、身支度を整えて辻の店に帰った。
店に着くとアンマーはものすごい形相で、「いもごろまで何をしていた!、お茶はどうした!?」
と問い詰められ、しかたなく水着を買ってナンミンで泳いできたことを白状した。するとアンマーは「ヌーイーヒャ−、クヌ、フリムン!」(何だってこのバカモン!)と激怒した。
フミはその罰として三日間押入れに入れられ、学校ももう出さない、と言われた。
その三日のあいだ、押入れのなかでフミは親を恨み続けた。
―どうして私を生んだのか、生まれてこなければこんな苦労もしないですんだのに・・・・と。
三日たってやっと押入れから出されたが、廊下に薪を三本並べた上に座らされ、「これから二度とあんなことはしません。」と侘びを入れてやっと許された。
学校にも行かせてもらえなくなった。だが何日かたって担任の女教師与儀先生が、フミの級友四、五人とやってきて、アンマーに「どうか私に免じて許してあげて、学校に登校させてください。」と懇願してくれたので、やっと復校することができた。この与儀先生は後に、久米町の名家神村家へ嫁いでいる。
辻から通う小学校の同級生にフミと同じ境遇で、辻に売られてきた比嘉ヨシ子がいた。朝は起きるのがどうしても遅くなるので、二人でゆうべの残飯をかき込んで登校した。彼女もすでに亡くなったが後に糸満の神谷医院の奥様となった人である。またフミは足腰が丈夫だったことから五年生のとき学校のリレーの選手になり、那覇市八校連合運動会に備えて、競技会場の奥武山運動場に練習に通っていた。