これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときに
マチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。
ある日、奥武山の練習帰りに、渡地の橋のたもとで色の黒いおばさんがフミを待ち受けていた。そして、いきなりフミを抱きしめたかと思うとさめざめと泣き、「あんたの本当のお母さんだよ。
黒島には姉さんも叔父さんもいるから明日は一緒に帰ろうね」と言う。フミは驚いてうなずいたが、明日にも黒島へとなると抱え親にもことわらなけらばならない。
辻の抱え親は、実母の話に耳を傾け、もらい泣きした。だがフミを別室に呼んで、「学校も残っているし、ここにいたほうが親孝行もできる」と言い含めた。あくる日、結局フミは渡地の船着場に行かなかった。実母は一人しょんぼり黒島に帰った。しかし実母は諦めなかった。半年ほど経った頃、当時、石垣町議をしていた親戚を伴い、親類縁者から集めたフミのドシル(身代金)返済の金百二十円を持って再び辻にやって来た。
久米島からも義母を呼び出し、抱え親を含めた三者の対決的な話し合いになった。
実母が「私の娘を盗んだ」と切り出せば、
「そのかわりサバニ(船のこと)を置いていったではないか」と養母。
あいだにたった石垣の町議も、結局、フミ本人の意思に任せるよりほかはないと判断するに至った。五年生のフミは迷ったあげく、やはり辻に踏みとどまることにした。以後、フミには三人の母ができた。
実母出現のごたごたで、義務教育の小学校も卒業を目前にして中退したフミは、芸妓修業に専念することになった。芸事は辻町の奥村渠(ウークンダカリ)にあった玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けることからはじまった。
女学校への進学を温めていたフミであったが、そのウサを晴らすように踊りの稽古に打ち込んだ。
その甲斐があったことと、よほど、素質に恵まれていたとみえて、周囲も驚くほど腕を上げていった。フミの指導には盛重翁もことのほか力を入れ、古典舞踊の難関といわれる「諸屯」「伊野波節」を三年がかりで熱心に仕込んでくれた。