これまでの経緯ー宇江洲フミは大正2年の春に奥間政治、マナシーの三女として沖縄県八重山郡の離島・黒島で生まれたが、二歳のときにマチヤ(雑貨店)を営んでいた久米島から避難してきた来た子のいない夫婦にさらわれ、久米島でその夫婦に育てられたが、養父の不慮の死による生活苦から養母に身売りされてしまう。身売りされた沖縄本島の辻で忙しく働きながら、小学校に通うフミであった。
ある日実母が探し当てて辻に迎えに来たことにより、フミには三人の母(産みの親、子がないことから連れ去り育てたが生活苦でフミを身売りした養母、辻の身請けしたアンマー(抱え親))がいることで同様し悩むフミ。
結局学校もあるため、実母のいる黒島には帰らず辻に残ることを決心し、玉城盛重翁の門をたたき、琴と古典舞踊の手ほどきを受けるフミであった。
フミが十六歳、琴の稽古に励んでいる頃のことである。その年、昭和三年二月に沖縄で第一回普通選挙がおこなわれ、労働農民党の気勢は高潮していた。これを受けて三月八日に那覇市公会堂で婦人開放大会が開かれた。
そのとき、たまたまアンマー(抱え親)の買い物のお供をして公会堂の前を通りかかったフミが、「ディーサイ、チチインジャビラナ」(さあ、中に入って聞いてみましょう)と言ってアンマーとともに会場の中に入った。
演説会のなかで首里に住む一女性が飛び入りで演説を申し入れてきて、「私の夫は連日辻の遊郭に入り浸って家庭を省みず、私は子どもを抱えて苦労している。一日も早く辻を廃止しないといけません」と大演説をし、場外にあふれるほどいっぱいしていた参会者から大きな拍手を受けた。
それを聞いたフミはすかさず立ち上がって反論をさせてくれと申し込み、演壇に立った。
「私は辻遊郭に住んでいますが、私たちは好き好んでこの土地にいるのではありません。
親きょうだいを助けるため犠牲になってのことで、それは社会が悪いのであって、私たちが悪いのではないのです」とフミは遠い黒島から久米島に連れ去られ、辻に身売りされた自分を顧みながら意見を述べた。これもまた会場から大拍手を受けたが、これにはさすがの婦人運動家たちも黙ってしまった。
翌日、当時の新聞『沖縄朝日』は「演説カマデー」とフミのワラビナー(幼名)を付したタイトルをつけ、四段抜きで論旨明快で堂々たる反論だった、と大きく報道している。
さらに「沖縄における廃娼運動のはじめ」としているが、この集会は婦人の政治的自覚をうながす端緒となり、婦人運動を前進させる一定の役割をはたしたといわれ、フミの反論の事柄は『沖縄県史』第三巻『慢性的不況と県経済の再編」(安仁屋政昭・仲地哲夫)にも記録されている。
その直後、山田有幹氏ら労農党幹部四人がフミの店を訪れ、入党を積極的に促しているが、フミは首をタテにふらなかった。
以後、「演説カマデー」は、フミのニックネームにもなった。 何はともあれ、とにかくフミには少女のころから度胸と弁舌の勝った素質がみられたのである。